山本實彦 ーやまもとさねひこー (1885-1952)

山本實彦(常用漢字では山本実彦)は、大正8年に改造社を興し、戦前の日本の出版界をリードした人物として知られています。大正デモクラシーの時流に乗った編集内容で多くの読者を獲得した総合雑誌「改造」の創刊、一円という破格の価格で売り出された「現代日本文学全集」の刊行と映画や講演会をつかったその広告戦略など、斬新で大胆なアイディアを実行し、「出版界の革命児」と称されています。
このように、改造社社長として成功する前には、郷里である鹿児島・川内での経済的に恵まれない幼少期や、新聞記者として活躍した時代がありました。
山本實彦年譜
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明治18年
1月5日 川内新町(現・東大小路町で誕生)
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明治33年
川内中学校を中退しコザ市北谷小学校代用教員を務める
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明治41年
大学で学んだ後、やまと新聞社入社
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明治43年
英国国王ジョージ5世の戴冠式に備え、渡英
イギリス特派員となる -
明治45年
東京市議会議員選挙に立候補し当選
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大正4年
東京毎日新聞社の社長に就任
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大正8年
「改造」創刊
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大正11年
アインシュタイン招聘来日
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大正15年
円本刊行発表
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昭和5年
第17回総選挙に鹿児島から立候補し当選
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昭和6年
川内川改修工事着手
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昭和7年
「短歌研究」創刊
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昭和8年
バーナード・ショウ来日
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昭和9年
「俳句研究」創刊
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昭和19年
7月「改造」6月号で廃刊
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昭和21年
1月「改造」復刊
4月 第22回総選挙に立候補し当選 -
昭和27年
大小路築堤概成を見届けて 7月1日永眠67歳
山本實彦とアインシュタイン
アインシュタインについて
相対性理論で有名な世界的な原子物理学者・アインシュタインは、山本実彦の招致により日本を訪れました。ノーベル賞受賞を知ったのは日本への船中でした。実彦の先見性の高さがわかります。日本での各大学での講演会により影響を受けたのが日本初のノーベル賞学者・湯川秀樹博士でした。
画像:”改造社前にてアインシュタインと”
1.来日の理由
アインシュタインの来日は、改造社の山本実彦社長からの招待によるものだった。山本氏(改造社)から日本へ招待いただいた時に、私は数ヶ月を要する大旅行に行こうとただちに意を固めました。それに対する私の説明しうる理由というのは、もし私が日本という国を自分自身の目で見ることのできるこのチャンスを逃したならば、後悔してもしきれないというほかありません。
私が日本へ招待されたということを周囲の人びとが知ったその時、ベルリンにいた私が、あれほどまでに羨望の的になったことは、いまだかつて、私の人生の中でなかで経験したことはありませんでした。というのも、われわれにとって、日本ほど神秘のベールに包まれている国はないからです。
当時の日本を限りない愛情を込めて西洋に紹介したのは、ラカディオ・ハーンであった。アインシュタインはハーンの著作を読み、日本への期待を抱いていた。来日後、彼は次のような手紙を親友に認めている。
「やさしくて上品な人びとと芸術。日本人はハーンの本で知った以上に神秘的で、そのうえ思いやりがあって気取らない。」
当時のヨーロッパは、第一次大戦が終わったばかりの荒廃した状態だった。多くのヨーロッパ人は、現代西欧文明の精神的な行き詰まりを感じていただろう。それに対して日本はいまだ「神秘のベールに包まれている国」であった。
2.日本での講演
「6時間におよぶ講演に聴衆が酔った」
11月19日には、アインシュタインは長旅の疲れをものともせずに、慶應義塾大学にて6時間もの講演を行った。読売新聞はこう伝えている。
6時間におよぶ講演に聴衆が酔った----慶應義塾大学での日本初の講演の内容は「特殊および一般相対性理論について」。1時間半から3時間の講演後、1時間の休憩をはさみ、講演が再開され8時半に閉会。実質6時間の長講演にもかかわらず、2000人以上の聴衆は一人として席を立たず、アインシュタインと通訳石原純の一言一句に静粛かつ真剣に聞き入っていた。理論が理解できる・できないにかかわらず、皆アインシュタインの音楽のような声に酔いしれたという。
その後も、東京帝国大学での6回連続の特別講演、東京、仙台、京都、大阪、神戸、博多での一般講演などが続いたが、どの会場も盛況で、千人単位の聴衆が集まり熱心に聞き入った。
3.日本人への印象
外国の学者に対するこの尊敬の念は、今日もなお、日本人のなかにある。嫌味もなく、また疑い深くもなく、人を真剣に高く評価する態度が日本人の特色である。彼ら以外にこれほど純粋な人間の心をもつ人はどこにもいない。この国を愛し、尊敬すべきである。
この伝統が発達してきたのは、この国の人に特有のやさしさがヨーロッパ人よりもずっと優っていると思われ、同情心の強さゆえでありましょう。
4.原爆後の湯川秀樹博士とアインシュタイン
70歳になろうかというあのアインシュタインが、湯川の両手を 握り締めて激しく泣き出したのだ!そして、何度もこう繰り返した「原爆で何の罪もない 日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。原爆はアインシュタインが1905年に発表 した理論式に基づく発明であった。
あのアインシュタインが湯川秀樹に号泣しながら謝った理由とは?「未来を予見できたなら1905年に発見した公式を破棄していただろう」
ノーベル賞受賞の前年、湯川はオッペンハイマー博士から米国に客員教授として招かれ、今後の人生を変える重大な体験をする。オッペンハイマーはその昔、彼が関っていた専門誌へ湯川が投稿した「中間子論」を一笑に付し、論文掲載を拒否したことがあった。また、自身が開発を指揮した原爆が3年前に日本へ投下されたことへの自責の念もあり、湯川を世界トップクラスの研究所へ招いたのだ。湯川が米国に到着すると、すぐにある人物が研究室を訪ねて来た。アインシュタインだ。
湯川は扉を開けて驚いた。彼のヒーローでもある、70歳になろうかというあのアインシュタインが、湯川の両手を握り締めて激しく泣き出したのだ!そして、何度もこう繰り返した「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。原爆はアインシュタインが1905年に発表した特殊相対性理論、E = mc2という公式を基にした兵器だった。アインシュタインはナチスの迫害を受けてアメリカに亡命したユダヤ人。彼はヒトラーが原爆の開発に着手したことを知って危機感を持ち、1939年、ルーズベルト米大統領に対して「絶対にドイツより先に核兵器を製造せねばならない」と進言したのだ。
※1954年、死の前年にアインシュタインは「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」と語っている。
目の前で世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている姿を見て、湯川は大変な衝撃を受けた。「人間」アインシュタインの良心に触れた彼は、学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はないという考えに至り、以後、積極的に平和運動に取り組んでいく。彼はまずアインシュタインが推進する世界連邦運動に加わった。
